昭和四十六年四月十一日 朝の御理解。


X御理解第四十二節 「これ程信心するのに、どうしてこういうこと
が出来るであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはま
だ信心が足りぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからお
かげが受けられる」。


 これ程信心するのにどうしてこういうことが出来るであろうかというところ。これ程信心するのにどうしておかげが受けられんであろうかと。私、思わなければいけないと思いますね。これ程有難い御教えを頂いてある。
 これ程信心するのにと思えれる程に、教えをよく頂かにゃいけん。またこれ程信心するのにという程しの信心をせなければいけない。それでこれだけの信心をしよるのに、これだけ教えを頂いとるのに、どうしておかげを受けられんだろうかと、私は思わにゃいかんと思う。思わんからおかげにならん。
 これはまだ信心が足りんのじゃと思うて、そこから初めて、成程自分くらいの信心ではおかげが受けられるはずはないと。これ程と思っておったけども、どれ程しの信心が出来ておるか。これ程しの信心、どれ程信心が出来ておるか。それならこれ程打ち込んでいるようにあるけど、どれ程打ち込んでおるか。そこが分かってくるのです。
 中にちょっと皆さんこれ程お願いしとるのに、これ程信心しとるのにどうしておかげが頂けんのじゃろうかと思うて見ねばいけません。思わんから信心が進まん、同じところをグルグル回っておる。
どれ程信心が進展しておるか。
 まあ形の上で申しますなら、毎日朝参りしておるというだけでおかげが受けられんなら、本気で午後も参ってみるが良い。信心にかかってみるが良い。これはどうでもおかげを頂かなけりゃならん。
とても私一人の信心では駄目だと。これ程はっきりおかげが頂ける道がある。ここの場合それが言えると思います。
 まあそれなら親先生を見てみろということなんです。成程言われる通りのおかげを、自分自身が自分の一家の上に、ああして頂いておられるではないか。それにはやはり奥さんも熱心なら、親御さんも熱心。子供さん達もやはり熱心である。こう申しますといかにも私の方が出来ておるようであるけれども、本当に出来とるということはですよね、とてもこれは限りがないことです。
 けれどもやはり一つの皆さんの手本にはなると思うですから、私どもがこうしてお道の教師にお取り立て頂いたり、または教会としてのおかげを上げて頂いておる。以前の大坪または大坪の家のことを見ておって下さった方は、そのままであろうが、お話にも致しておりますから、ならここまでのおかげを頂かれるまでに、どういう所を通られたか、どういう信心の姿勢をとられたか、私は思うてみて頂きたいと思うですね。そしてその先に教えだと。
 言うならば、おかげの手本といったようなものを、私がここで皆さんに見て頂いておると思うとります。ですから私は一ぺん皆さんがね、本気で本当に家はどうしておかげ頂かれんじゃろかと思うたら、成程家内がついて来ん、成程子供がついて来ん、成程一家が心が揃うていない。成程修行・精進が欠けておる。
 私はそういう信心をやはりしてみなければいけん。それで尚且つおかげが受けられんなら、いよいよ教えをもう一ぺんいわゆる再読さしてもらう。もう一ぺん本気で御教えに取り組んでみる。これ程信心するのにどうしてこのようなことが起こるであろうかという思いを。思えば信心が止まっておると言われるが、これ程一生懸命にお願いしよる信心させてもらっておるのに、どうしておかげが受けられんだろうかと、どうでも皆さん思わにゃいかん。
 本気でここでちょっと、ことは御教えに反するようですけどですね。どうしておかげ受けられんだろうか。これは大坪の家の上にだけおかげを下さる神なのが、すべての上に健在、健康の上に、人間関係の上に、経済の上に、成程様々な難儀な所通らしてもろうたが、その通り具合というものを、皆さん聞いておって下さるのですから、また実際見ておって下さるのですから、そして成程これではおかげが受けられんはずだなあと。
 皆さんの場合の信心を見ておるとですね、成程おかげを受けておるのですが、そのおかげがそれ限りで終わっている。そのおかげががね、子供を生んだり孫を生んだりしよらんです。そんな感じがします。それでいてこれ程信心するのにとは言えんです。
 成程これ程とは言えない、成程これくらいな信心しか出来よらんから、このくらいのおかげだと知らなきゃいけんです。そしてです、おかげにはおかげの花が咲く、おかげの稔りが頂けれるというおかげを頂くために、お互いがもう一ぺん本気で信心を検討してみねばいけん。
 私は思わしてもらうのに、本当におかげというものはね、おかげにはおかげの花が咲くというようにですね、そのおかげがね、やはり子を生んで行き、孫を生んで行く。せなけりゃおかげじゃないですよ。
 それは困った時だけお願いします。おかげを頂いたというだけで、同じ願いをまたせんならん。経済なら経済の場合でもそうです。
人間関係の場合だってそうです。すべての点においてそうです。これだから、そこん時に覚えにゃいけん。同じことばっかり繰り返し繰り返しお願いせんならん。これ程信心するのに、いつも同じ所ばかりグルグル回っとる。これ程しの信心が出来んから、これ程しのことしか分かって来ん。
 そして自分一人が熱心であるなら、主人である場合、家内に頼まにゃいかん、本気で。家内の場合であるなら、本気で主人に頼まにゃいかん。一人で持ち上がらん石でも大勢掛け声揃えれば、重たい石でも持ち上げられる道理と仰るから、そういう道理なのであるから、これはどうでもあなたが一生懸命に、私とあなたが一生懸命ならなければ、またお前も一生懸命付いて来てくれなければ、私は頼み合わにゃいかんと思う。
 そしたら子供達に頼むが良い、そして本気で信心の共励を自分の家庭でするが良い。成程こげなことじゃ、俺んところはおかげ頂かれんぞ。これでは神様の御機感に適わんもんねというところが分かってくる。そこんところを改め改めして行って、それで尚且つまたおかげが受けられんなら、今度いよいよ教えに取り組む。
 そして例えば御神誡、たった十二ヵ条しかない。信心さして頂く、それがちっとも難しいこと言っていない。その難しいこと言っていない、ただ読み流し、聞き流しであって、成程このこと一つが守られておらんもんだからというところになって行かにゃいけん。「これ程信心するのにどういうことが起こってくるだろうか。そういう風に思うたらもう信心はそれで止まっておる」と仰る。
 私はね、やはり自分の信心を、これ程信心させて頂いておるのに、どうしておかげがおかげを生んで行くようなおかげにならんのだろうか。合楽の方達、おかげは受けておる。そん時、そん時やはりお願いして、おかげ受けておる。それは信心が熱心であろうが、熱心であろまいが、おかげを受けておる。けれどもおかげが本当におかげとして成長しとらん。いわゆる堂堂巡りである。
 だからそこんところで信心が抜けないかん。この人は一段と信心が進まにゃいかん。成程これ程しの信心、これはこれ程のおかげと知らにゃいけん。そしておかげが受けられる。おかげの一つの手本というものを、これは私だけじゃない、おかげを受けておる人達の姿を一ぺん見てみてです、やはりそこん所を本気で、自分のものにして行こうという精進をなさなければいけん。
 ただここんところに、これはまだ信心が足らんと、一心に信心を進めて行けば、そこからおかげが受けられる。だからそこからのおかげがです、私どもが度々分からしてもらい、味あわせて頂かなけりゃならん。この神様ちゃ本当に合わせ鏡のようだと言われるが、本当にそうだなと。
 こっちが本気になりゃ、神様も本気になって下さる。こっちがいよいよ真の信心を目指しゃ、本当におかげが真のおかげになってくる。私はそのように間違いのない神様であることを、皆さんが先ず分からしてもらわにゃいかん。そこでより良い信心に進んで行くことが楽しくなって行くし、有難うなってくるわけです。
 本気で教えにも取り組まして頂き、教えが身に付いてくる。おかげになってくるのです。そこからのおかげ、しかも段々そこからのおかげがです、いわゆるおかげがおかげを生んで行く、いわゆるおかげの子が出来、孫が出来というようなおかげにつながって行くことのために、本気で信心もせにゃならん。修行もせにゃならん。家族中の者が勢を揃えて信心もせなきゃならん。本気で日々の信心の共励もせねければならん。本気で教えに取り組みをせねばならない。信心しておるなら、こういうことであってはいけないと。
 例えば御神誡なら御神誡を十二ヵ条の中にあるそのことをです、本気でもう御神誡もいらないくらいに。
 四神様にある先生が「金光様、私は自分の部屋に御神誡を書いて額に上げとります」と。毎日それを眺めておりますという意味のことを申し上げたらね、「あれは見るものじゃない、一つ一つ消して行くもんじゃ」と仰った。これだけはもう見らんでも自分のものになったということで、言うならこれだけは自分のものになったというのがどれだけあるでしょうか。
 言うなら、もう御神誡というものは自分にはいらなくなったと。
例えば御神誡の中に、「腹立てば心の鏡の曇ること」と、もうこれだけは思い込みが出来た。初めの間は腹かきゃ馬鹿らしかというくらいのことじゃったけど、もう腹を立てないということだけがこのように有難いことかと、これだけはもう自分のものになったと一つ消して行かにゃいけん。一ヵ条一ヵ条、もう自分のもの血肉になったという風になって行って、消して行ける程しの、そういう信心に取り組んで行かなければいけない。
 これも一つの過程でございますから、これはまだ信心が足りんのだと思い、一心に信心して行けば、そこからのおかげが受けられるという、そこからのおかげというものはね、一つ一つ言うならば信心を、今まで出来なかった信心を身に付けて行くということなんですけれども。
 だから一心にお参りが出来ていないならば、一心に参ることが大事と言うて、ここんところをですね、ああ自分たちの一心の信心が足りんのだと言うて、一心に参るとか、一心に拝むということだけに、これはまだ自分の信心が足りんといったようなところから動かない人がある。
 だからその信心はまあ尊いものですね。一心を貫こうという、けれども一つの段階においては、、これは日に一ぺんだったのを日に二へん参ろうといっとようなことも有難いでしょうけれども、その参る内容というものがね、修行さしてもらう内容というものが変わって行かねば駄目なんです。
 皆さんに本気でそういう信心してもろうて、本当におかげがおかげを生んで行くというおかげ。子供が出来、孫が出来て行くという言わばおかげ。そこに安心、安楽なおかげ、もうこれだけは子供が見てくれる。もう孫がこれだけ手伝ってくれるというおかげでなければいかん。
 ところがいつまで経ったっちゃ、年をとっても自分が中心になって、一生懸命働かにゃならんというような信心じゃ駄目。それにはやはりこれ程信心するのにどうしてと思うてならんというのじゃない。思うて見なければいけん。思うてみん方がおかしい。そこから信心の工夫がなされる。
 「話を聞くばかりが能ではない、わが心からも練り出せ」と仰る。これは力みどころが違うとる、力の入れどころが違うとる、と色々に工夫がなされることです。そこからのおかげ、そこからのおかげが受けられるというのは、そういうことだと思う。
 まあ皆さん、こうやって朝参りをやっておられる。一生懸命なさっておられるということは、まあ言うならば、大体それ程信心できとられるわけなんですよ、皆さんの場合。だからこれ程の毎日一生懸命お参りをしておるのにですよ、おかげが【 】とするならです、ここに一つ不思議を感じなけりゃいけん。
 そして例え、今日私が色々申しますように、これは家内にも頼まなけりゃならん。主人に頼まなけりゃならん。子供にも頼まなけりゃならんかも知れません。それが例えば出来ておるならばです、本気で一つ御神訓、御神誡、御理解に本気で取り組まなきゃいけん。
 そして例えて申しますと、いよいよ信心が一家を挙げて教えに取り組む。そういう信心が変わって参りますならば、おかげの方が変わってこないはずがないと私は信ずる。これは私の信心、私の一家の信心、信心のおかげがおかげを生んで行く、子や孫を生んで行くおかげを私は頂いてきておる。そうして信心がです、信心が窮屈なものでもなければ、信心が大義なものでもない。ますます身に付いて行けば付いて行く程、有難い心は育って行く。
 これでも足らんというなら、まだお参りしたり、色々修行せんならんとなら、いよいよきついことだ。でなくて、信心が進んで行けば進んで行く程、一段一段有難うなって行くのである。一段一段それが自分の身に付いて行く、来るのである。言わば信心は容易いものに段々なって行くのである。
 一時ばかり朝参りをしておかげを受ける、もうおかげは同じことのごと思うてから、やめてしまう。その一事一事が違う。貫ききらん。これでは成程おかげが千切れ千切れになるはずだと思わしてもろうて、これ程の信心が、これくらいの信心が、これくらいのおかげと分からしてもろうて、一端の信心をさしてもらう、その一端の信心、そげん信心するなら一日かかっとらにゃん。信心にかかっとらにゃん。信心にかかっとらして頂くということ。それが一つの容易いものになって行くところが、信心の有難い値打ちというところであるとこう思います。
 今日四十二節の、「これ程信心するのに、どうしてこういうことが出来るであろうか」というところをです、「これ程信心するのにどうしておかげが受けられんじゃろうか」を一つ思うて頂きたい。
そこん所を今日は申しました。そこから信心の工夫がなされる。それは様々な工夫がなされる。
 そういう時に一つのまあ大した手本になりませんけど、私と私一家の信心を手本にして頂きたいと思う。 成程これだけでも自分方はおかげを受けられんはずだと分かってきます。
 だからそこに精進をする、それから先のことは、言うなら御神誡一つが身に付いていないという事実をね、見極めさせて、成程これではおかげが受けられん。成程毎日お参りはしておるけれども、金光様の御信心振りというものが、自分の身の上にも、家の上にも現われていない。
 あれでも金光様の信心をしておられるであろうかというような程度の信心しか出来よらん。これでは私はいつまで経ってもおかげがね、それは参ってお願いをするから、おかげは受けても、おかげがおかげを生んで行く、おかげの子供が孫が出来て行くというようなおかげになってくる。
 私は昨夜から、これは表現が出来ませんようなことで、実はお知らせ頂きましたからね。けれども本当に自分たちの信心がですね、子が出来ていない、孫が出来ていないというのが、結局、本当な信心が出来とらん証拠です。
 ですから本気でそこん所を一つ考えて頂いて、自分の信心が変わって行けば行く度に、こういうおかげの世界が広がって行くんだという、その体験を頂いたなら、改まって行くこともまた楽しい、また修行させて頂くこともまた有難い、やはりおかげはどうのこうのと言うけれども、やはりおかげが伴わなければ、私どもは元気が出んです。
 そこからです、真の信心をさせて頂けば真のおかげが受けられる。結局真の信心の言わば真不足であることを分からせてもろうて、いよいよより良い信心に進んで行かねばいけません。
 どうぞ一つ、これ程信心するのにどうしてという疑問をね、皆さんが一つ、本気で考えて下さらにゃいけん。夫婦で話し合ってみるが良い。親子で話し合ってみるが良い。そしてこれじゃやはりいかんばい。のんべんだらりとした信心ではいかん。これはどうでも一つ夫婦で改めて行かねばいかん。親子でここんところをもう一ちょう信心を、あ割った信心になって行かにゃいけんなといったような、そういう分かって頂きたい。
 そこからのおかげ、そこからおかげ受けられるという、そこからのおかげの体験を積んで行きたい。ま、積んで行って頂きたいと思います。
どうぞ。